久しぶりの『街道をゆく』

『街道をゆく―秋田県散歩・飛騨紀行』を読み終えて 

 昨日、司馬遼太郎さんの『街道をゆく-秋田県散歩・飛騨紀行』を読み終えました。
 以前、どこかで書いたことがあると思いますが、初めての土地に出かけるときには、司馬さんの『街道をゆく』を読むことを儀式のようにしています。
 ツアーでは白川郷・高山が行程上のセットになっていることが多いことから同書後半部の「飛騨紀行」だけ読了済みのままだったのですが、何を思ったのか未読部分を読んでしまおうと手にしたのです。

 現在、昔の写真を整理中で、数年前に息子と二人で旅した十和田湖のスナップ写真を見たせいかもしれません。と言って秋田はある件で中嶋嶺雄先生(当時 学長)を訪ねて国際教養大学に出かけたことがあるきりでしたが、奥入瀬から秋田との県境にある十和田湖畔までドライブしたときも秋田県に入ることもなかったことが思い出されます。それほど個人的には縁のない土地だったのですが、この本のおかげで、いつか行ってみたいと思えるようになりました。

 そう言えば、『街道をゆく』を手に取るのも久しぶりのこと、忙しさにかまけて(口実にして)ずっと棚に収まったままでしたが、読み出すと止まりません。いまだに新鮮さを感じさせられるだけではなく、勉強になります。
 少しだけ、書き抜いておきたい箇所があったので、ご紹介を兼ねて引用させていただきます。

 江戸期の武士のほとんどは貧しかった。
 おのれの生涯に堪えることと、富むことをねがわず、貧しさのなかに誇りを見出し、公に奉ずる気分がつよかった。そのことが、明治への最大の遺産になった。
 明治の官公吏や教員にうけつがれた。むろん明治の軍人も、その相続者だった。ただ、軍人には出世という ”楽しみ“ があり、しばしばそのことがかれらを毒した。明治期の村役場の吏員や教員に、そういう気配はうすい。”気配のうすさ“ こそ江戸期の武士たちからうけつがれたものと考えていい。(112-113㌻)

 江戸中期ごろから日本の社会に、知的好奇心がひろがった。後期には、学問をして学者になろうなどという功利的動機でなく、ただ好きだから本をよむという風が、農民・商人の階級にまでひろまった。
 明治は、すでに学校教育の時代だったから、かえってそういう人達は学校に吸いとられて、人数は減ったはずだが、それでも江戸後期の余熱をうけて、意外な市井人に無名の “学者” がいた。(146-147㌻)

-司馬遼太郎:『街道をゆく 29』(朝日文庫 1990年9月20日 第1刷発行)


 余人にはどうでもいいことかもしれませんが、私自身の自戒の念として、子ども達への指針として記録させていただきます。