新米添乗員の独り言「十三里」
先日、久しぶりに日帰りバスツアーを担当しました。川越・蔵造りの町並散策と巾着田・曼珠沙華でしたが、天候にも恵まれたおかげでお客様にもご満足いただきました。直前の鉄旅ではお客様からこれまで経験したこともないほどのNoを突きつけられてしまって意気消沈していただけに、少しだけほっとしました。
ツアー中に余計なことばかり口にするとお客様を混乱させるだけで、肝心なことが伝わらないという苦い経験をしたばかりでしたので、今回はガイド資料ならぬ旅程管理フローを作成してツアーに臨みました。受付から解散までのチャートですが、このメモの通りに進めても渋滞で間の悪い雰囲気が漂い始めたものですから、川越名物の流れから鰻とサツマイモについて少しだけトリビアを披露させていただいたところ、かなり受けたようです。
「九里(栗)よりうまい十三里」については、半年ほど前に本欄「東京国立近代美術館『没後50年 鏑木清方展』」でも書いたことがあります。繰り返しは避けますので、よろしかったらリンク先をご参照ください。「川越いも」として江戸時代から有名な産地だったこと、そして江戸から川越までの距離が十三里(本当かな?)あったことから「焼き芋」の異名になったのですね。
柳田國男さんも『国語史 新語編』中の「異名と戯語と隠語」に次のように記しています(一部表記を改変させていただきました)。
真似は卑屈のやうだが、是が大昔以来の国語を培養する常の道であった。ただ趣味の偏奇が甚だしく、多くの異名の併存が望まれなくなって、その技藝の競争が一段と烈しくなり、いつも稍々奇を衒う少数の先達にばかり、引きまはされる結果を見ただけが今風なのである。是も実例は幾らもあるが、紙面が乏しいから沢山は挙げられない。薩摩芋を「くりより」うまいから十三里と呼び始めたなどは、ほんの或剽軽者の駄洒落であつたろうが、九州の或県などでは、既に是を方言集に載せて居る。関東では夙に又是を八里半と謂ひ、其語を幼児が使つたことが、三馬浮世風呂にもちやんと見えて居る。
『定本 柳田國男集 第十八巻』(筑摩書房 昭和52年2月20日 第13刷発行) 439頁
引用文中では「浮世風呂」になっていますが、前田勇編『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)の「八里半」の項に「焼芋(薩摩芋)の異称。その美味なること栗(九里)に近いの意。文化八年・浮世床 初中『流行の八里半がいゝのさ』」の記述から、恐らく「浮世床」の書き誤りだろうと思われます。
〔2022年10月2日 訂正・追記〕
柳田國男が書いていることを確認もせずに「書き誤りだろう」と書いて済ませてしまっていけないですね。時間があったので、念のために岩波書店の『新 日本古典文学大系 86』所収の『浮世風呂』を確認してみました。「三編 巻之下」にありました。三才ばかりの男の子に「はちいあん」と言わせています。これが栗のことで「八里半とは九里に近い」であると、おたこ(母親)に説明させ、おいかさん(そばにいたかみさま)に「栗よりおいしうございます」と言わせています。柳田先生、大変失礼いたしました。
おたこ「(略)坊は聞分(ききわけ)が能(いゝ)から御褒美をやりませう。餅(あんも)がよかろ。薄皮か。お焼芋か
『新 日本古典文学大系 86』(岩波書店)1989年6月20日 第一刷発行 184-5頁
小児「はちいあん。はちいあんが能(いゝ)よ
おたこ「はちいあんトハ何だの
小児「はちあんお芋が能(い)いよ トなき声
おたこ「ヲゝオゝ、お芋お芋。ムゝ八里半か。ヲホゝゝゝ此子はマア誰が云(いつ)で聞(きか)せたか、をつな事を覚(おぼえ)てさヲホゝゝゝ
そばにゐるかみさま おいか「ヲホゝゝゝ八里半ツサ。いかな事てもとんだ事を覚(おぼえ)てさネヱ。ほんにほんに子供衆(こどもし)というふものは、能(よ)くまア子耳にはさんでお忘(わすれ)なさんねへ物でごさいますネヱ。巧者な口をおきゝだ
(中略)
おたこ「さやうございますともさ。私も初(はじめ)は何の事を申すかと存(ぞんじ)たらば、八里半とは九里(くり)に近いと申すことだと
おいか「さやうさ、最(もう)ちつとで栗だといふ事ださうにございます。おまへさんはどうか存(ぞんじ)ませぬが、私どもは栗よりおいしうございます
おたこ「さやうでございます。栗は皮をむくだけ世話でございます
さて、こんな調子で旅行中のお客様に長々とご説明しようものなら、そんなことはどうでもいいから云々とお叱りを受けることは必定です。
バスツアーではさわりだけに留めておきましたが、栗に遠慮して「八里半」だった焼芋が、「九里」から「十三里」に出世するほどの人気があったということ。そして今でも「いも恋」をはじめスイート・ポテトを駆使したデザートが多いことを説明するだけにした点が我ながら良かったと自己満足する新米・添乗員でした。因みに10月13日は「サツマイモの日」です!!!(なぜ13日? 言わずもがなでしょう)。
散策時間が十分とれなかったため、かなり急ぎ足の散策をお客様に強いてしまったことは今後の課題とします。かく言う私も業務の都合で、蔵造りの町並や時の鐘、そしてその近くにあるSTARBUCKSの写真を数葉撮るだけになりましたが、今月第3土日の川越まつりのご案内も付け加えておいたので、お天気次第でしょうが、お出かけ下さる方もいらっしゃるかもしれません。あまりの混雑で「川越市民は家に籠って外に出ないよ」と市役所でお聞きしたのですが、そのことは敢えてお伝えしませんでした。これって、罪なことでしょうか?!
やきいも 焼芋
『平凡社 世界大百科事典』(1988年4月28日 初版発行 1993年印刷)第28巻 359頁
サツマイモを焼いたもの.サツマイモの食べ方として最も簡便、かつ美味な方法なので、日本でもサツマイモの渡来直後から行われていたはずである.(中略)関東では1735年(享保20)に青木昆陽が実験的な栽培を始め、以後半世紀ほどの間に関東一円に普及した.(中略)
〚焼芋屋〛(略)いつごろからあったかは不明だが、1719年朝鮮の使節団の一員として来日した申維翰がその著《海游録》に、京都の日岡(ひのおか)で路傍の露店で焼芋を売っていたことを書いている.おそらくこれが記録上最古の焼芋屋であろう.その後、焼芋屋の記事はとだえ、寛政(1789-1801)ころに江戸に出現する.(中略)こうした店は軒先の行灯などに〈八里半〉〈十三里〉などと書いた.前者はクリに近いの意、後者はクリ(九里)より(四里)うまいというしゃれである.(以下、省略)
以下は私のメモ帳から。私のスペイン語ではないので、どこかのHPからの抜粋のような気がします。出典が確認できたところで、追記させていただきます。お許しください。
Kawagoe (川越), comúnmente llamada “la pequeña Edo”, es una pequeña localidad situada a unos 30 minutos en tren desde Tokio que merece la pena ser visitada en una excursión de un día desde la capital.
Durante el periodo de Edo (1603-1868), Kawagoe fue una ciudad importantísima para la capital, Edo (hoy Tokio), ya que desde allí se distribuían muchas de las mercancías necesarias para Edo. La ciudad tenía, por tanto, una gran importancia comercial y estratégica, razón por la cual el shogun colocó a varios de sus hombres más leales en el castillo de Kawagoe y esta ciudad mantuvo siempre una relación muy estrecha con la capital. Tanto que hasta hoy en día recibe el nombre de “la pequeña Edo” porque pasear por sus calles es como volver atrás en el tiempo.
Los antiguos edificios y almacenes de arcilla llamados kurazukuri y las estrechas y oscuras callejuelas, nos transportan al Japón del periodo de Edo y nos permiten ver y sentir cómo eran los pequeños pueblos del Japón más feudal.