巌流島 上陸

 今回は家族通信「竹の子」より、2008年8月23日の巌流島散策について転載させていただきます。

※下記の記述内容(データや感想など)は執筆当時のものですので、予めご了承ください。

 小紙第55号の報告からさらに遡るのですが、8月23日に初めて巌流島に行きました。北九州に移ってから、いつか行ってみたいねと香奈子さんとは話をしていたのですが、ようやく実現しました。

編集者注:出典不明(記録がありません)


 この船島については、吉川英治が『随筆 宮本武蔵』の中で次のように書き記しています。

 見たところ巌流島は、彦島の子島にすぎない一平洲である。島の北崖がやや高く、東南へかけて平べったく海水とひたひたに渚の線を描いている。
 彦島村役場の明治頃の土地台帳によると、巌流島全体の面積一反六畝十六歩とあるから、いかに小さい島かが分ろう。岸のいちばん高い所でも六十三呎(フィート)ぐらいなものだとある。武蔵と巌流との試合が行われた場所は、その小島の中央からやや南寄りの平地だったといわれている。その平地の一端に水溜りほどな池があって、太刀洗いの池といわれたものだという。(中略)
 巌流島という名称は、もちろん慶長以後、武蔵と巌流の試合が喧伝されてから後のもので、その以前は、船島(ふなじま)とよばれていたし、その船島という名も、附近の俚俗の呼び慣わしで、一般の地理的な眼にはほとんど入らなかった一小島に過ぎなかったにちがいない。
 有芳録(ゆうほうろく)などには「岩柳島」として明らかに出ているが、古い記載にはほとんど見当たらない。母島の彦島がこの辺の史蹟としては記録上にも代表しているかたちである。

  寿永四年正月。前内府、以讃岐、
  城廓ト為サレ、新中納言知盛、
  九ヶ国ノ官兵ヲ相具シ、門司
  ケ関ヲ固メラル。彦島ヲ以テ
  営ト定メ、追討使ヲ相待・・・
  云々(東鑑)

 などの記載や、盛衰記の元暦元年の条には、義経の軍が兵船を仕立てて知盛の引島城(彦島)を攻略するの記事などが見えるが、そのほかの紀行や古歌などを見ても、特に船島の文字は見あたらない。
 もっともこの辺り海峡一帯には、島とも岩礁ともつかない物だの、六連(むつれ)、藍島(あいじま)、白島(しろじま)など幾らもあるので、特に目にも入らなかったのであろう。それが一躍天下に知られたのは、巌流の墓碑が試合の後に建ってから後のことだったのは疑いもない。

『吉川英治全集 18』(講談社) 359-360頁

 上述のとおり、本当に小さな島でした。宮本武蔵を知らなかったら訪れることはなかったと思います。この日は、門司港から唐戸までフェリーで渡った後、巌流島行きに乗り換えました。乗船時間は15分(門司-唐戸 5分、唐戸-巌流島10分)ほどのものです。門司から巌流島までの往復切符が、1,500円ですから明らかに観光客を当て込んだ料金設定です。現在は無人島ですので、致し方ないというところでしょうか。
 折角おにぎり持参で出かけたのだからと、バーベキュー用に設えられたテーブルで対岸の古びた船渠を見ながら一休みしました。島全体の3分の1が下関市、残りが民間企業の所有地となっているそうです。吉川英治の随筆にも触れられていますが、所有者は幾度も変わっているようです。

家族通信「竹の子」 第56号 2008年9月25日発行

2008年8月23日 巌流島・下関

 当時のスナップ写真ですが、今回は妻が撮影したものをご紹介させていただきます。私は子ども達がメインの写真を、彼女は主に風景や気になる事物を撮るのが趣味でした。私の写真の殆どが景色よりも家族が主役の写真なので、いつかご紹介する機会もあるかもしれませんが、今回は彼女の関心事をご想像できそうな写真(ほんの一部ですが)を掲載させていだきます。

竹の子

次の記事

金子みすゞとの出会い