独り言

 三月ほど前にそれまで続けさせていただいていた現場を離れることにしましたが、そのお蔭で貴重な経験を積むことができました。人生というのは面白いもので、一つのドアが閉まっても別のドアが開くとはよく言ったものです。

 業務をお引き受けするか否かの判断材料として私が一番大切にしていることが、相手を信用できるかどうかということ、もっと言ってしまえばその一点だけです。

 前にも書いたことがあります。子ども達への躾は整理整頓と挨拶のみ。特に挨拶は重要視しました。その残念な結果についても触れましたが、現時点ではそうでもいつの日か変わってくれることもあるだろうという仄かな希望を持ち続けていることも事実です。それほど人間というのは変わることができる存在だと信じています。

 挨拶については、これこそ繰り返しになりますが、鈴木健二さんの『気くばりのすすめ』を始めとする著作で叩き込まれたとばかりは言えません。子どもの頃から事ある毎に躾けられていた節もありますが、それが呼吸をするように当たり前のことだったことは確かです。

 ところが社会に出てみて、あるいは家庭を持ってみて、必ずしもそうとも言い切れないものであることも感じさせられることが多いのです。お蔭で鈴木健二さんの言わんとしていたことがよくわかるようになりました。
 世間には個人としてではなく、組織の一員として、その一部分でもあるかのような振る舞いのできる人がなんと多いことか、大きな組織になればなるほど、ご自身の能力を度外視して(失礼!)、自身よりも弱い立場の人間には尊大な態度で臨むことのできる人が目につくような気がしていますが、如何でしょうか? お互いに尊重することなくしてよい結果は得られないはずなのに、様々な場面でその期待を裏切られることが多いのも事実です。

 子ども達には何事も三度は目をつぶるように言い聞かせてきました。「三度は黙って呑み込むこと、でも四度目は身を引くように!」
 話しても分からない人間から自ら身を引くこと、近づかないこと、と教えています。この点もなかなか聞き入れてもらえていないのですが、処世訓としていつか私がいなくなったときにでも実感してくれたらいいと思いながら過ごしていますし、私自身もそういう気持ちで日々を過ごしております。

 ということで、負け惜しみに聞こえるかもしれませんが、嫌がらせを受けてまで現状にしがみつくことだけはやるまい、業務も本当に信頼できる方々とのみさせていただくというスタンスです。多少の誤解を覚悟でこの点は明記しておきたい、いつか私の子ども達が父親がこんな思いで生きていたということを知ってもらえる日も来るに違いない、来てほしい、と願いながら生きていたことを確認してほしいと思いながら雑感として書き記しておきます。以上です。

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