Don Quijote de la Mancha

 今回も司馬遼太郎さんの『街道をゆく』です。相変わらず少しずつ読み続けているシリーズなのですが、本日、その第35巻「オランダ紀行」を読み終えたところです。
 最初に同書からの引用をさせていただきます。

 フィンセント・ファン・ゴッホへの旅をつづける。
「Gogh(ゴッホ)」 
 という地名が、ドイツ国境にちかいあたりに存在するらしいが、私は地図でたしかめていない。
 フランスやドイツでは、地名を冠して苗字がよばれる場合(ドとかフォンを加えて)、多くは貴族あるいは騎士階級の出身者である。イタリヤやスペインでもおなじことで、たとえば色事師ドン・ファン、セルバンテンスがつくりあげたドン・キホーテのドンが、オランダ語のファン(van)にあたる。

-司馬遼太郎 『街道をゆく 35 – オランダ紀行』(朝日新聞社 1991年3月10日 第一刷発行 373頁)

 スペイン語の「ドン」については、他の巻でも同じようなことが何度か言及されています。その都度、赤線を引いたり付箋をつけたりしてはいるものの、インデックス化がきちんとできていないために該当箇所を特定することができません。このことは先日書いたばかりですね。
 思い違いとしか言えないのですが、流石の司馬さんと言えどもこのような間違いを繰り返しているのですから、凡人の私は多少の誤りを恐れずに今できることを生一杯続けるしかないと開き直っているところです。
 さて、「ドン」についてですが、日本語の「の」という意味であるとすれば「デ (de)」が正しいはずです。日本でも藤原という姓をある時代まで「ふじわらの」と「の」をつけて呼ばれる人たちがいたことを思い出せばわかりやすいです。つまり、土地の有力者が自分の領有する地名を冠して名乗っていた時代があったことや、官職名として自分の好みの地名を冠した「のかみ(守)」を称した人たちがいたこともご存じのとおりですね。
 この「の」がいつ頃まで使われていたかについて司馬遼太郎さんは『街道をゆく』シリーズのどの巻かで説明をなさっていたはずです。土地と日本人についての関心の高さを示しているように私には思えるのですが、「ドン」と「デ」を取り違えることが複数回(私が覚えているだけでも三度)あるということを指摘しておきたいと思います。尤も司馬さんのことのことですから、きっとどこかで訂正をなさっているはずという思いも私の中にはあります。決して揚げ足取りをしているわけではありませんので、誤解なきようお願いいたします。

 ところで、私の田舎では親族を呼ぶのにそれぞれの居住地だけでどの家かを指します。例えば、「濁川」であれば実父の実家、「鼓岡」であれば、母方の祖母の実家、私の母の実家(私の祖父宅)は「大吉」という屋号(いなかでは「ヤゴ」と言います。因みに道路のことを「カイド = 街道」と祖父母の世代は言っていました)で呼ばれていますので例外ですが、義父の実家は「黒川」というだけで誰のことを示しているのか説明は不要です。これも土地に根ざした日本人の特性の一例と言えるのではないでしょうか。
 同じように考えると Don Quijote de la Mancha は「ラ・マンチャの郷士(hidalgo < hijo de algo)キホーテ」の出身地(家)を指すために de が繋ぎの役目を果たしていることがわかります。つまり、「ラマンチャの男」と言えば誰のことか一目瞭然なるのと同じことですね。

 以上、尻切れトンボ気味ですが、「ドン」ではなくて「デ」が正解ではないかという注記でした。

 ここまで書いてしまって、ふと思い出したのですが、同居していた母親だったので「大吉のカチイ(母の名)」という言葉をよく耳にしたのであって、彼女が部落(地区のことです)外に電話するときには「苔ノ美(のカチイ)」だと名乗っていました。電話等で地区内にいる親族や知人と話しているときに「苔ノ美(の)」と言うのは何の意味もなさないですね。私の叔父叔母と話をしている際に「大吉(の)」は要りませんが、地区内には同じ苗字の家(ほとんどが同一の姓という所もあります)ため、お互いが「ヤゴ」で識別しないとどの家の人間か特定できないこともあったのです。私の母は「大吉のオバ」、叔父(母の兄で長男)は「大吉のアンニャ」、私自身は「カチイさ(さ = さん)のアンニャ」、私の弟たちは「カチイさのオジ」、妹は「カチイさのオバ」で通じました。
 「アンニャ」は長男のことで、農村では全ての財産を相続していたため、それ以外の子ども達は地域外に出て行くしかなかったという時代が戦後のある時期までは続いていました。相続で分割し続けてしまったら農地が細分化されて農家は立ちいかなくなってしまうのですから当然の仕組みだったのでしょうが、日本人の大半が農業に従事していた時代は過ぎ去ってしまった今は、どうなっているのか関心のあるところです。
 通訳ガイドになって白川郷等の伝統的な農家屋内を見学するようになってからのことですが、長男夫婦は独立した部屋に寝起きをしていたのに、その他の弟姉妹は大部屋で雑魚寝という間取りを見ると何となく罪悪感を感じてしまうのはどうしてでしょうか。現代は一所懸命というよりは、一生懸命という時代になっているはずなので、あまり意識することはなかったものの、長男というだけで甘やかされて育ったのかもしれないと思うことが時々あります。そんな時には私の意識下にも、まだ農民の血が流れ続けていることの証の一つなのかなと感じてしまいます。どうでもいいことですが、つけ足しておきます。