二つの「間」、そしてトモイチ

 久しぶりに歌舞伎座に出かけました。本当に久しぶりに、それも今回は観劇です!
 三月大歌舞伎の第三部の演目は『信州川中島合戦 輝虎配膳(一幕)』と『増補双級巴 石川五右衛門(三幕五場)』の二作。私にとっての見所は芝翫さんと幸四郎(十代目)でした。と言っても私は劇場での観劇はほんの数度で、殆どが歌舞伎チャンネル等のテレビ放送ですので、舞台の臨場感を愉しむという機会は多くはありません。
 学生時代にお世話になった大学図書館のMさんが、貧乏暮らしの私を見兼ねてか、能や歌舞伎観劇にお誘いくださったのが、古典芸能との出会いになります(中学時代の修学旅行時に歌舞伎座だったか国立劇場だったか忘れましたが、歌舞伎鑑賞がありました。場所も作品名も覚えていません)。通訳ガイドになってからも劇場には出かけても東京なら歌舞伎座の外観と屋上庭園、京都なら南座外観と祇園コーナーで50分ほどの伝統芸能鑑賞どまりです。私自身の経験がこの程度のために訪日ゲストをご案内するということは皆無に近いのですが、こんなときだからこそと御招待券をお譲り下さったAGTのA様には感謝せねばなりません。
 ということで、今回も自腹を切っての観劇ではなかったのですが、最初の演目『信州川中島合戦 輝虎配膳』開演早々に竹本が台詞を遮るかのように語り始めようとするという間の悪い場面に出会いました。これまでの数少ない観劇でNGは初めての経験でしたので少し驚いたのですが、何事もなかったかのように演技は続きました。これが一つ目の「間」、そしてもう一つは、ストーリーの終盤で激怒する輝虎を尻目に輝虎の屋敷を立ち去る越路(山本勘助の母親)の花道での「間」。些か長い「間」の意味が理解できなかったのですが、とても気になる場面になったものですから特記したいと思い上記のようなタイトルにしました。なお、あらすじについてはネット検索をお願いします!(便利な世の中になりました!!)
 観劇時にイヤホンガイドを借りたことはありません。敢えてそうしているのですが、その理由は自分でもよくわかりません。学生時代にお誘いいただいた頃にイヤホンガイドがあったかどうかすら覚えていませんが、そういうものは使わずに観るのが作法だとでも思いこんでいるのかもしれません。ガイドの仕事をしていると、どうしてもより多くの情報を得たいという気持ちにもなることもあります。それでも若い時からの性分(貧乏性という面はそのままです)が変わらないものの、パンフレット(筋書き)の購入だけは毎回することにしています。
 ひょっとしら最後の場面でのあの長い?「間」についての解説がイヤホンガイドにはあったかもしれませんが、もう少し人生経験を積めば、あの「間」の意味も理解できる日もあるやもしれないという気持ちでいます。ということで、こちらの「間」は私自身に対するばつの悪い思いという意味での「間」です。
 この「間」、「沈黙」と言った方がいいかもしれませんね。このような空白の時(空間)を外国からのゲストはとても嫌います。もし昨夜の観劇の際に彼らと一緒だったら、あの「沈黙」は何を意味するかという質問があっただろうなと思うのは私だけではないと思います。
 この時間と空間に共通する「間」こそ、日本文化にはなくてならないものと思っているのですが、歌舞伎における「間」については、若い時から手許にずっとおいてある『歌舞伎読本』(福武文庫)に興味深い記述がありますので、ご紹介させていただきます。
 福武文庫なんて聞いたこともないという方のほうが多いでしょうが、第何次だったかの文庫ブーム時代に現在のベネッセ(福武書店)もサンリオや旺文社のように文庫を出版していたんですよ。この文庫は日本ペンクラブ編となっていると同時にNHKアナウンサーだった山川静夫さんが掲載記事の選者になっています。因みにこの文庫の読本シリーズには他に『スペイン読本』や『韓国読本』等もありましたが、歌舞伎とスペインしか私の蔵書として残っていません。
 そうそう、引用でしたね。次の文章は武智鉄二という演劇評論家の「歌舞伎はどんな演劇か」に収められている文章です。タイトルは、「間」です。

 きまることは、歌舞伎の好む劇的効果である。いや、三味線音楽の定間自体、チントンシャンとか、ツンシャンとか、きまることの効果の上に成り立っている。日本舞踊はきまることを目的に、踊られているように見える。みな、そこで安心して、一服するように見受けられる。
 しかし、きまるという間は、日本古来の伝統芸術に、存在しただろうか。能がきまるということはない。狂言も、いまの末世の狂言は、落語のように、きまって、おどろいたりしてみせることもあるようだが、私どもの学んだ筋目正しい狂言には、やはり、きまるという所作はなかった。何かの拍子で、そんなことをやると、師からこっぴどく叱られたものだ。
「いやでございますねえ」
 定間に入ると、きまって、そういって叱られたものだ。きまるということは、いやなことだったのである。
 三味線の影響下の芸が、いまでは日本的な古典のように考えられているが、それは日本人の本来の(生産的な)美意識からは、許容されないものではなかったか。
 三味線は、一五四九年の、ザビエルと共に渡来したスペインの民俗芸、三絃ギター、フラメンコの影響から生まれたものではなかったかと、私は推測する。きまるということも、フラメンコ舞踊の、かっこいいポーズの取り入れと考えれば、その突然の顕現に、説明をつけやすい。
 それは、目立ちやすい異風芸として、受けいれられた。しかし、それは本来の、民族的なもの、すなわち、生産的なものではなかった。
 きまることへの反の理念として、間の理念が成立した。三味線以前の能に、間という概念が存在しないのは、当然である。
 間は、エキゾチックなもの、異風なもの、淫声的なものへの、民族文化伝統に立つ反省として成立した。リズムに乗ったり、きまったりすることのエキゾチシズム(単なる異風文化というだけでなく、非現実的という意味でも異風な)への反省、または反発として、間の理念は、日本の芸のための、守られなければならない最高倫理規定、ノルムとなったのである。
 それはリズムを正常な生活感覚に戻し、写実性にひきもどす規範であった。
 だから、間は、精神からの使者であり、反面、観客の精神を、快楽から現実へひきもどすための使者でもあった。
 それ(間)は、様式性の壁をつきやぶる真実の通し矢――真実を白日下にさらすがゆえに魔でもあった。
 時間(拍子)を、演劇的な第四次元空間と考えるならば、間は、さらにその先の、生理が精神の断面にくいこむ “瞬間” であり、日本人だけがみつけだした “第五次元” の世界なのである。

-日本ペンクラブ編『歌舞伎読本』(福武文庫 1992年1月16日第1刷発行169-71頁)

 かなり長い引用になってしまいましたが、現在では入手も難しい文庫だろうと思い、私の興味を引いた箇所をそのまま抜き書きしました。なお、引用中の「いやでございますねえ」と「「いやなことだった」の「いや」には傍点が施されています。きれいに傍点を付けることができないため注記させていただきます。

 今回のタイトルの「トモイチ」についてですが、これは続く演目『増補双級巴 石川五右衛門』の主人公・五右衛門の本名のようです(実在した人物か否かを云々しません)。竹馬の友である木下藤吉郎がしきりに「トモイチ、トモイチ」と呼ぶものですから、まるで私自身が呼ばれているようでおかしかったものですからタイトルにつけ加えてだけのことなのですが、帰宅後に調べてみたら「友市」と書くようです。私の名前は「友一」ですが、なかなか「トモイチ」とは読んでもらえません。「ユウイチさんですか?」が大半ですので、この頃は諦めてしまって支障がない限り「そうです」と答えています。
 たわいのない話はこれだけなのですが、この作品の見得が「フラメンコ舞踊の、かっこいいポーズの取り入れ」と述べる武智鉄二は演出家、映画監督でもあったそうですが、このような視点はスペイン語愛好家の私にはとても新鮮だったものですから敢えてこの機会にご紹介させていただいた次第です。

 南禅寺三門での「絶景かな、絶景かな」(子ども達はNHK教育チャンネルの ‘にほんごであそぼ’ で聞き覚えましたし、この「にほんごであそぼ」カルタは彼らにとってお気に入りの遊びでした)の場面はいいですね。
 満開の桜の中に佇む三門で見得を切る幸四郎には拍手です。日本三大門の一つで「天下竜門」と呼ばれるこの門で天下を取ろう(摂政・関白になる)と決意を固めているところで捕縛されるというシーンで終幕。尤も五右衛門の活躍した時代にはこの三門、焼失したままで再建されていなかったということは司馬遼太郎さんもどこかに書いていたと思いますが。
 その前幕のつづら抜けの宙乗りも、観ている私たちにとっては興奮もので、見得を切ってからそのまま3階に消えていくシーンは本当にワクワクしました。昨年亡くなった幸四郎の叔父 中村吉右衛門さんもさぞご満足なさっているのではないでしょうか。

 昨夜は本当に感激してその余韻に浸っているものですから、5月に上演予定の『暫』(歌舞伎十八番のひとつ)と『土蜘』(テレビで能の『土蜘蛛』を観たことしかありません)だけでも観劇したいと思っているところです。以上です。


〔2022年4月4日 追記〕三門(山門)ついて

 日本仏教は中国仏教をうけいれたために、どの大寺も、当然、門がりっぱである。古くは、単層の門ながら大和の法隆寺の東院の中門が大きかった。
 鎌倉期に入って、宋の様式がよろこばれるようになると、いよいよ門が大きくなった。東大寺の大仏殿の南大門は鎌倉期に再建された宋様のもので、じつに巨大である。

 塔についてふれる。禅のほうでは、その思想から塔はさほどに重視されず、どの大寺にも、五重塔や多宝塔などはない。
 ところが、“塔”ということばは、禅宗では多用される。臨済宗の各大本山のなかにある子院は“塔頭”とよばれるのである。
 塔もないのに塔頭というのもおかしいが、この場合の“塔”とは墓碑のことである(卵塔・五輪塔などを思えばよい)。
 高僧や施主の墓(塔)のほとりに庵をたて、亡き師に対し、生けるがごとく仕えたところから、塔頭ということばができた。
 ついでながら、タッチュウ(塔頭)という奇妙な音は古代に入った呉音・漢音でなく、鎌倉・室町のころに入宋した禅僧がもたらした唐宋音である。さらについでながら、禅宗の住職のことを和尚(おしょう)とよぶのも、唐宋音である。
 また、椅子、箪笥、行灯、行脚、暖簾、蒲団も、この時期、禅僧や堺商人によってもたらされた唐宋音が、日本語のなかに入った。

 さて、門にもどす。
 寺院の正門のことを、山門という。
 禅宗の場合、ときに山門は、
「三門」
 と表記される。“三解脱門”の略ということになっている。三解脱とは、空と無相と無作のことをいい、いずれも、私心を離れた天真の世界のことである。ともかくも、中国の宮殿や官庁から出発した巨大門は、権力と無縁であるべき禅宗においては、精神的意味づけがされるようになったが、誇示にはかわりがない。

『街道をゆく 34 大徳寺散歩 中津・宇佐のみち』(朝日新聞社 1990年4月10日第一刷発行 106-7頁)
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