名こそ惜しけれ

 相変わらず、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』をバッグに入れて外出しています。電車内が私の読書の場所になっていることから外出しない日は参考書以外の本を開くことは皆無に近いというのが正直なところです。
 残された時間はもうそんなにないという思いが心の片隅にあるからだろうと思うのですが、仕事のための読書と愉しみの為のそれは別物という気がどこかに棲んでいるようで、参考書を開く空間と愉しみの場をきちんと線引きしたいという意識が働いているのかもしれません。
 と言ってウィズ・コロナの状況下ではほとんど仕事はないので、請負った業務については生活の糧を得るためのバイトという感覚もあることは事実だと思います。だから手を抜いていいということにはなりませんので、何事にも一所懸命に、という思いは大切にしているつもりです。

 さてさて、いつものことながら、こんなどうでもよさそうなことから書き出してしまったのですが、『街道をゆく』シリーズは絶筆となった『この国のかたち』と同じくらいに私にとって重要な書物です。最後に一人だけを選べと迫られたら渡部昇一さんでもなければ吉川英治でもなく司馬遼太郎さんを選択することになるだろうし、その中のどれかシリーズを一つだけと言われたら間違いなく『街道をゆく』全43巻になるだろうと思います。
 語学関係に重きを置けば渡部昇一さんと松村増美先生の著書に出てきた書籍、語学以外の本となると司馬さんがあちらこちらで取り上げていた書籍が私の蔵書の中心になっていることは間違いありません。
 これらの本を処分することはあまり考えたくはないのですが、数年前に老師の蔵書の行く末を目の当たりにした経験からいつかは私自身の手で決着をつけなければならないという思いと、できることなら我が子の糧になる存在にならないかという微かな希望に託すしかないという諦めの中で心が揺れ動いています。
 今ここで云々することではない、と自身に言い聞かせながらも、やはり蔵書というのは死ぬまで手元においておきたいものですよね。願わくばこの本の下敷きになって死にたいというのが本音です。とりとめのないことを書いてばかりで恐縮ですが、我が子には少しでも本の愉しみを理解できる日が来てほしいという強い思いだけでも記録しておきたいので、ご寛恕願います。

 本当に収拾がつかないですね。「名こそ惜しけれ」、今回はこれがキーワードです。この言葉は司馬さんの著作でよく目にしますが、同氏の執筆自体が20歳のご自身への手紙を書くつもりの活動であればこその一言だと思います、「もののあはれ」にしても「明治の悲しみ」にしても、同氏の統一テーマになっているのですから、そこから逸脱した作品はなかったのではないでしょうか。
 ただ面白いからとか、益になるからとか、というだけでは我が子のことですから理解してもらえません。だからこそ、日々の読書の中で出会ったときが吉日と思って以下のような抜き書きを少しずつ続けたいと思っています。これが単なる自己満足に終わってしまうことになったとしても、父親が何を思い生活をしていたか知る術を少しでも書き残しておくことが子ども達に対する最後の務めだと信じています。

 私は、日本史のながれのなかに、三つの大きな美的もしくは美的倫理感情があったとおもっている。
 ひとつは『源氏物語』で表わされた “もののあはれ” である。
 もうひとつは『平家物語』における坂東武者たちの、
「名こそ惜しけれ」
 というたかだかとした美的倫理感情である(これをわすれてしまった日本人が、国際舞台に乗りだしてくれては世界じゅうが当惑するにちがいない。)
 同時に、明治の悲しみという日本文明の上で最大の感情といえるものを忘れては、日本人は情緒欠陥人間になってしまう。
 こんなことを到着第一日から考えさせられるのは、やはりロンドンというかつて世界を代表した都市文明のなかにいるからにちがいない。
 幕末から明治期に欧米に留学した日本人は、異質な大文明にうちひしがれた。たとえば、明治初年、旧幕時代にパリに派遣された留学生のなかで、任務に耐えきれず、幾人かが自殺さえした。自殺者の名も理由も残っていないが、かれらの緊張と抑圧の感情は理解できる。
 なにしろ、かれらは、攘夷の気分の横溢した極東の孤島から派遣されて、ヨーロッパ文明のなかで、ひとりでそれを摂取せねばならないという、過大な任務を負わされていたのである。

 漱石は、時代としてはその末端に近いあたりにいる。
 ここですこし余談になるが、漱石およびそれよりすこしあとの知識人が、とくにその家庭や書くものにおいてはなはだしく不機嫌だったという共通の感情に目をすえたのは、山崎正和氏である(『不機嫌の時代』『著作集第8巻』中央公論社)。氏のいう “不機嫌” は、漱石・鴎外からさらに世代がさがって、志賀直哉や永井荷風にまでおよぶ。
 私のいう「明治の悲しみ」は、おそらく山崎氏の「不機嫌」と同根かと思える。ただ、私の場合、立論の基礎は前述のようにごく単純で、文明としての西洋と陋穢な日本というものを一個人で代表しつつ、西欧文明と対決しつづけていることの失落感をここで “悲しみ” とよぶだけである。

-司馬遼太郎 『街道をゆく 30 – 愛蘭土紀行Ⅰ』(朝日新聞社 昭和63年6月20日 第一刷発行 70-1頁)

 農地はそれを管理する者の所有となった。 “武士” という通称でよばれる多くの自作農は “家の子” とよばれる小農民を従えて大きく結集し、律令制という古代的な正統性をたてとする京都の公家・社寺勢力と対抗し “田を作る者がその土地を所有する” という権利をかちとった。日本史が、中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする “百姓” の政権が誕生してからである。私どもは、これを誇りにしたい。
 かれらは、京の公家・社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。
「名こそ惜しけれ」
 はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階級につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中でいきている。

-司馬遼太郎 『この国のかたち1』(文春文庫 1993年9月10日 1刷発行 28-9頁)
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