大君とミカド

 インバウンドのゲストにはツアー中に、天皇制については現代の首相との関係、さらに江戸幕府の将軍との関係を踏まえながら説明することにしています。
 一時は愛子様を巡って女性天皇の可能性についても説明を求められたこともありましたので、来日なさるゲストはある程度の予備知識を持ってツアーに参加なさっている節もあると感じさせられることもありました。
 今回はこの将軍とミカドに係る興味深い記述に出会いましたので、ご紹介させていただきます。

 ジャパン・タイムズに掲載されたサトウの所謂「英国策論」は、薩藩内部からの依頼がなくともサトウの頭の中で成熟しつつあった。日本に於ける思い出の中に、サトウがその最初の芽ばえを記してある。これは彼が江戸の公使館でパークス公使の下で働くようになった時のことである。
「私が新しい長官(パークス)のお役に立つことができた仕事の一つは、条約文の用語に関するものであった。英文では大君(タイクーン)の場合は、『ヒズ マジェスチィ(陛下)』の敬称が用いられて、わがイギリスの女王と同格におかれていた。しかし日本語の訳文では、これは『ハイネス』と同意義の『殿下』となっているので、大君とイギリスの女王を同格とすれば、イギリスの元首はミカド(天皇)よりも下位に立つことになるわけだ。のみならず、『クイン』という言葉は、天皇の曾孫にあたる女性の称号と同じ『女王』という言葉に訳されていた。そこで私は、日本語の新しい訳語をつくることを提案した。そして、その案では『マジェスチィ』にそれ相当のふさわしい日本語の同義語をあて、『クイン』の方はコーテイ(皇帝)という訳語を用いるというのであった。皇帝という語は、すべてのシナ英語辞典には、普通『エンペラー』と訳されており、実際上『至上の君主』を意味し、男女の両性にあてはまるのである。こうした荒らしい訳語をつくる仕事が私の手にゆだねられた。私は自分の教師の助けをかりて、一カ月ばかりで、どうやら正確な訳語をつくり上げ、それが採用されて、公式に用いられるようになった。そして、それはミカドを日本の君主と認め、大君をその代行者(リューテナント)と認めるという新しい政策の基調となったのである。」
 言葉の正しい意味を探って、実質についての誤解を見出した。
「また、私は書物を読むことによって、大君という言葉は本来ミカドと同義語であることを知ったので、日本政府とわが方との間の通信文には『大君』という語の使用をやめてしまった。もっとも、混乱をきたさないようにするため、外務省との通信文書には、そのままにしておいたが、最も重要な成果は、ミカドが条約締結の権能を有するという政治理論を、従来よりも一段とはっきりさせたことであった。条約がミカドの承認を得られなかった間は、われわれは公認された地位を有しなかったのであるが、ミカドの条約批准を得てからは、諸大名の反対には何らの論拠もなくなったのである。」
 以前に紹介した香港版の一八六八年の年鑑には、日本の政体がまだ不完全にしか知られていないとして、なかば神性を持ち人民の前に姿を見せることをしない精神的皇帝ミカドが国の名義上の元首であり、その傍にジョオグン(将軍)と一般に呼ばれ世襲で行政の中心となっているタイクーンが俗界の皇帝として在る。しかし、ミカドもタイクーンも、全国にわたる普遍的権力を持ってない、と説明してあった。サトウの論文がジャパン・タイムズに出た(一八六六年)二年後にまだ、日本の政体は、つかみどころがなかったので、日本に居るサトウだけが、人に先駆けて、濃い靄に隠されていた天皇と将軍の地位を識別したのである。
 言葉の解釈から始められたものが、所謂「英国策論」と成熟し、サトウは、将軍の権威失墜の事態を正視し、雄藩連合が天皇の権威を戴いて新たな条約関係を設定し、紛糾している日本政局の安定を計るべきだと論じた。
 サトウは、幕府の権威が失墜したのを認め、大名の地位に引きさげ、雄藩連合が天皇の下に国策決定に当れば、今日のような分裂状態は消滅し、統一のある政府が日本に出来て事態は安定し、貿易も正常な発展をすると論じた。幕府に対しては、正しく、不意に椅子を取去って、顚覆の危険も起り得る性質のものである。その目的の為にサトウは、容赦なく幕府の正体を追及して見せた。幕府は正しい意味の日本政府とは認め難いと言うのである。
「大君は日本政府を指揮すると公言しているが、実は諸侯連合(大名の集合体)の首長に過ぎないで、最初の条約が締結された時もそれで、大小大名の一番上の大名に過ぎず、将軍が国家の支配者として振舞ったのは、実際は国の約半分が彼の管轄に属していたのに過ぎぬから、極めて僭越な行為であった。従来も大君について多くの不満の根拠を持っていた独立の大名が、自分たちが協議もされなかった処置を認めないで拒否するのは驚くに値しない。当然の結果、彼らの方で激しく敵意を表明し、外国代表のみならず、大君の閣僚までに漠然とした危険に対する危惧を起さしめた。大名の家来たちが開港場へ入るのを、厳重に禁じたのもその故である。」

大佛次郎 『天皇の世紀 10 逆潮』(朝日文庫 昭和53年1月20日発行 90-2頁)


 上記引用中の「以前に紹介した香港版の一八六八年の年鑑」は、次の箇所に出て来ました。

 親切な友人が私に、一八六八年、つまり慶応四年版の、中国、日本、フィリピンで必携の英語版の年鑑 (Chronicle and Directory for China, Japan and Philippines for the year) を届けてくれた。香港のデイリ・プレスが印刷したもので、東洋で執務する役所、銀行、商社が利用するように必要な条項を編集したもので、各地の官庁商社の人名録、取引先の名簿、日本の武鑑の全巻英文訳まで添えて、関係条約法規の順、船舶交通表、毎年の貿易額等を収録してある。その日本の項の冒頭に、「国家組織と政府」について次のように掲載してある。
「日本帝国の政体についてはまだ不完全にしか判らない。国の名義上の首班は、ミカドと呼ばれ、なかば神の子孫と看做されて人民が見ることもない精神的君主である。それとは別に現世の君主がある。ジョーグンまたはタイクーンと呼ばれ、その地位は家系の中で世襲的で、中央の執行機関を代表する。しかし、ミカドもタイクーンも全国にわたる全般の権威を持つものではない。現在の政府は、大名と呼ばれる一定数の封建貴族が委任せられ、彼等はそれぞれの領土に於て絶対の権力を行使している。」
 やがて明治と改元する慶応の末年(一八六八)に至りながら、日本の政体について外国人がまだ理解不明の分を残している。中国は領土広大で、地方の政治は時々に中央から派遣された官吏が施行しているが、絶対君主の下に中央集権の政体である。それと比較して、島国の日本の政体は靄の中に在るように朦朧としていた。精神的君主のミカドの外に、政権は将軍が握っている。しかも、中央の威令が国内に行きわたっているのではなく、三百余の大、小名が領地を支配していた。その中の絶大な藩、たとえば長州や薩摩は、攘夷の問題などについては中央の幕府を掣肘し、時に動きが取れぬものにしている。政治の重心は不安定に移動するが如くであって、中央の幕府は足が地についていない。また正体不明なのは精神界の君主のミカドであった。政治上の現実の権力は皆無なのに、幕府も列藩も、その無形の権威に頼ろうとする傾きをしばしば見せた。そして、その朝廷と廷臣が日本の盲目な排外的熱気の明瞭な核心であった。

大佛次郎 『天皇の世紀 8 逆潮』(朝日文庫 昭和52年12月20日発行 180-1頁)


 後者引用文中の第二段落は同書の著者である大佛次郎のコメントですが、サトウ(アーネスト・サトウのことです)が言及している年鑑の記述に対する補足説明となっていますので続けて引かせていただきました。
 蛇足です。この大佛次郎の『天皇の世紀』は朝日文庫全17巻で構成されています。残念ながらこの作品が著者の絶筆となってしまい未完です。最後は入院中のベッドの上で執筆されたそうですから、作者にとっても無念だったに違いありません。
 昨年末に『天皇の世紀』ドラマ版をまとめて視ました。但し、全話録画したはずなのに、第1回から第12回までしか見つからずに甚だがっかりしたものですから、改めて文庫版を手にしました。
 参考までに「家族通信 竹の子」に記録した、このドキュメンタリー版の紹介記事を転載させていただきますね。但し、このドキュメンタリー版の録画も所在不明のために内容は全く記憶にございません。悪しからず!

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「天皇の世紀」ドキュメンタリー版 約40年ぶり再放送
日本映画専門チャンネル

 お盆休み中に標記の連続放送を観ました。原作は数年前に朝日文庫版全巻を購入していたのですが、未読だったためにまずはこの番組を観てみようということにしたのです。HPに関連記事が公開されていたので、本文のみ引用しておきます(以下HPより引用)。

 明治維新の志士たちを活写した作家・大仏次郎(1897~1973年)の代表作「天皇の世紀」。その世界を様々なテレビ制作の手法を駆使して描いた同名番組ドキュメンタリー版が13日から、BSの日本映画専門チャンネルで約40年ぶりに再放送される。伊丹十三をリポーター役に、斬新な内容が評価された番組。監督を務めた今野勉の証言で制作当時を振り返る。
 大阪・朝日放送の20周年記念番組として1971年からまずドラマ版が放送され、それを引き継ぐ形で73年10月から、ドキュメンタリー版が始まった。日曜午前10時半からの30分番組で全26回。坂本龍馬が横井小楠、三岡八郎と新政府について話し合う「福井の夜」から始まる。
 ちょんまげ姿の武士が新幹線に乗り、現代のパリの街並みを歩く。市議会での収録、舞踏団が白塗りで踊る「ええじゃないか」。大政奉還の場面では放送記者が関係者に直撃取材し、中継した。史料を基に構築された原作を踏襲しつつ、ドラマ、ワイドショーなどあらゆるテレビ的手法が試みられている。

■現場主義
 明治維新は100年前のこと。すでに証人はいないし、多くの史跡もなくなっている。その時代を生きた人の息遣いをどう伝えるか。今野たちがとったのが現場主義だった。
 とにかく現場に行き、歴史を追体験する。例えば「福井の夜」では、当時の人々が船で渡っていた川に今は橋がかかるため、龍馬にタクシーで橋を渡らせた。たまたま入港していた米軍艦を、黒船に見立てたことも。随所でスタッフを画面に映し出し、撮影の様子を示した。今野は「現代と過去が断絶したものではなく、つながり、重なっている。その臨場感、緊張感を出したかった」と振り返る。

■大佛史観
 「テレビは生の真実を見せる力を持っている。『天皇の世紀』はドキュメンタリーでやってほしい」。そう語る大佛の肉声が残されている。
 大佛の遺志を受け、原作の文書をそのまま生かす方法はないか、スタッフ全員が一緒になって考えた。台本はなく、構成台本は資料のようなもの。現場では全員が、原作のコピーを手にしていた。「好き勝手に様々な手法を動員しているようだが、根底には大佛さんの歴史観、人物観があったので、番組が崩れなかった」と今野は言う。

■伊丹十三
 番組の大きな魅力が、伊丹のリポートだ。ドキュメンタリーとドラマ、過去と現在を自在につなぎ、番組を引っ張る。制作にも深く関わっていた。セリフをその場で書き、「廃仏毀釈」の回は自ら演出も手がけた。
 決してワンマンではなく、「伊丹さん、それつまらないよ」と、スタッフが自由に言える雰囲気があった。「自分が面白いと思ったことを、スタッフ全員が面白がる。そういう仕事のやり方を愛していた。テレビの自由でクリエイティブな部分を楽しんでいたと思う」と、今野は盟友を懐かしんだ。
 放送は13~17日、連日正午から。制作者や出演俳優らが思い出を語った特別番組3回シリーズが、13日午前11時40分、15日午後2時半、17日午後2時から放送される。また20日からCSの時代劇専門チャンネルでドラマ版(月~金曜午前7時)も始まる。(大木隆士)(2012年8月9日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20120806-OYT8T00565.htm

-「家族通信 竹の子 第197号」(平成24年[2012]年8月25日 発行)