読書録 『街道をゆく』

鎌倉で語るべきものの第一は、

 今回は司馬遼太郎さんです。『街道をゆく 42 三浦半島記』(朝日新聞社 1996年6月1日発行)を読み終えたのですが、この巻も盛りだくさんでした。
 学生時代から「落ち穂ひろい」のようにキーワードを記録しておけばよかったのですが、気になる事項が多過ぎて諦めてしまっていたような気がします。
 さて、小欄のタイトル「鎌倉で語るべきものの第一は、」にしたのは、一文そのままでは長すぎるからというだけの理由です。決して思わせぶりではありません、はい。
 これが、結び部分の一節です。

 鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。ついでかれらの死についてのいさぎよさといっていい。古今東西の歴史のなかできわだっている。
 が、それらは、博物館で見ることはできず、雨後、山道でも歩いて、碁石よりも小さなセピア色の細片でもみつけて感慨をもつ以外にない。

『街道をゆく 42 三浦半島記』(朝日新聞社 370-371頁)

 この『街道をゆく』シリーズは43巻で絶筆となりますので、同書は最晩年のエッセイ集になります。その司馬さんの言葉だけにその意味するところは決して小さくはありません。
 私は本を読んでいても言葉に気を取られてしまって、まさに木を見て森を見ず状態になることが大半です。
 今回は同書で気になる言葉の筆頭が「卑怯」でした。これを書き留めておかないと、いつものようにどこに書いてあったっけ? になることは必至です。ということで、この語を記録しておこうと決めていました。
 そして最後の結びの文章だったものですから、本書を読み切って司馬さんの伝えたいことが集約されていると合点できたので、この雑文のタイトルとして、その一部を切り取ったまでのことです。
 さてさて、いつものことですが、話が脱線してしまいましたね。
 まず、この「卑怯」にまつわる部分をご覧下さい。

 宴が酣(たけなわ)になってから、
「相州、申サレテ云フ」 
 と、『吾妻鏡』にある。
 相州、相模守、つまり時頼のことである。相模守はすでにふれたように京からみれば卑職ながら、日本国での二なき命令者だった。
 時頼が、いう。
「近ごろ、武芸を怠る者が多いようだが、このことはまことに面白くない」
 比興(ひきょう)ト謂フベシ、と原文では時頼がいった。比興というのは、鎌倉風の漢語で、本来、物事にたとえて興趣があるという意味であり、『詩経』に典拠がある。
 しかし当時の武士たちは逆に、面白くない、という意味としてつかっていた。やがて、この比興から、当て字としての卑怯ということばがうまれてくる。

(同上書 228-229頁)

 これだけでは、私が何を言いたのかは全くわかりませんね。是非本書を一読ください。三浦半島という共時的な舞台設定だけでなく、通時的な視点が必要になってくると思うのですが、これぞ司馬遼太郎さんの魅力!という典型的なエッセイ集になっています。当然、私の力量ではその奥深さを表現することは不可能です。この一冊には私の好きな人達が数多く登場していますし、歴史の教科書では学ぶことのできない中世の面白さや、気になる単語(国字だったり、四字熟語だったりします)が目白押しです。
 どんどん収拾がつかなくなってしまいそうなので、日本人のルーツを稲作という観点から探ろうしていた司馬さんならではの国字を紹介させていただいて、おしまい、にさせていただきます。

 重忠は、武蔵のひとだった。
 武蔵国は、広大である。いまの東京都と埼玉県、それに神奈川県の一部もふくまれている。畠山氏の所領と館は、代々埼玉県にあった。
 いまも畠山という小さな地名が存在する。こんにちの埼玉県県北の荒川ぞいにある。
「畠」
 という文字がおもしろい。漢字でなく、国字である。日本では稲作水田のことを田というが、漢字の本家の中国では、田の字は、稲作、麦作、または蔬菜(そさい)畑を区別しなかった。
 ところが、日本の奈良朝はコメをもって基盤としたため、ハタケは軽んじた。朝廷の書記たちは、ハタケのことを、とくに、
「白田(はくでん)」
 と書いた。白とは、コメはゼロという意味である。ついには二字が重なって、畠という字ができた。ついでながら、焼畑を想像させる畑という字も、国字である。

(同上書、328-329頁)

 ほんとうに蛇足。どうでもいいこと、かもしれないのですが、こんなところにばかり気が行ってしまうのです。同シリーズ25巻でも「畠」と「畑」に触れた箇所があります。こちらはメモ書きがあったので備忘のために、この機会に併せて引いておきます。

 朝鮮では、焼畑農民のことを、
「火田民(かでんみん)」 といった。日本では、稲をつくる耕地だけを田という。中国や朝鮮では「田」には畑もふくめられる。野菜や雑穀をうえるハタケは、畠も畑も日本製の文字なのである。ただ畑が火ヘンであるのが、暗示的といっていい。

『街道をゆく 25 閩のみち』(朝日新聞社 1985年5月31日発行 107頁)

 いつの日か、子どもたちの読書の指針になってほしい!という微かな思いが、伝わりますように...

【関連記事】旅の思い出☆鎌倉 高徳院 Daibutsu (Kamakura)