日本橋の貸し傘

 貧乏暇なしですが、久しぶりの連休。自宅でのんびり過ごしています。一昨日にコロナワクチンの2回目接種を終えて心も体もリラックスできていますので、貴重な体験を忘れないうちに記録させていただきます。
 この2か月ばかりは警備のアルバイトを休んで、あるエージェント様の本社ビルにて業務を担当させていただいています。日本橋という土地柄か昼食の場所探しが大変です。大体が土地勘がないのですから穴場など知る由もなく、口コミで知り得た情報をもとに可能な限りお店巡りをしようと決めています。
 先週半ばに美味しいお店があると先輩ガイドKさんが教えてくださったので三越本店に近い店舗に出かけました。少しだけ遅めのランチタイム。社屋から出てすぐに雲行きが怪しくなったのですが、小雨も気にせずにお店まで一直線(狐の嫁入りのような雨でした!)。
 一番人気?の塩ダレと鶏がらスープの塩ラーメンを食べ終わったところでかなりの土砂降りになってしまい、しばらく雨宿りをさせていただくことになりました。雨は一向に弱まる気配もないまま、しばらく待ったところでお店の方が、女物しかないけど良かったらどうぞと傘を貸してくださいました。仕事の帰りに返しに来ますとお伝えしたところ、14時頃には店を閉めてしまうのでいつでも良いとのこと。それでは、明日にでもと言ってお店を出ました。
 その話をK先輩にしたところ、「流石、日本橋ね」と一言。通訳ガイドの間では常識でしょうが、江戸の貸し傘は越後屋が最初だとか。お店の宣伝にもなるし、リピーターを増やすことにもつながりますよね。江戸でもかなり話題になったことは有名な話だそうで、川柳にも詠われています。
 今でこそ、都内でも貸し傘サービス(有料です!)も増えて来たかなという感じはしていますが、日本橋で実際に傘を貸していただくことになったものですから、江戸っ子の意気に触れることができた(錯覚でしょうか)ようで感激しました。
 お借りした傘はどうなったか? 勿論、翌日のお昼休みにお返ししました。お礼というわけではないのですが、2日続けてラーメンと焼き鳥の小丼定食。前日が塩ラーメンでしたので、翌日は醤油ラーメンにしました。好みは人によりけりなのですが、塩に軍配を上げさせていただきます。
 ランチにラーメン一杯と小丼とはいえ焼き鳥丼ではお腹が苦しくなりましたが、貴重な経験をさせていただいた体験料だと思って二日連続で同じお店でのランチになったというお話です。日常の何でもない出来事ですが、コロナ禍で鬱積しているものがスーッと抜けるような、ほのぼのとした気分に浸ることができました。話は以上ですが、ご参考までに定食の写真を共有させていただきますね。


〔おまけ〕
 越後屋の貸し傘については、司馬遼太郎さんの『街道をゆく』(朝日新聞社)が教えてくれたのではないかと思ってぱらぱらとページをめくってみました。メモや赤線を追って該当箇所を探したのですが、残念ながら見つからなかったので思い違いかもしれません。
 気持ちを切り替えて、日本語の「させて頂きます」という語法に関する記述を「引用させていただきます」。このように何気なく使っているので、ガッテンしていただければ幸いです。近江商人成功の秘密の一端を垣間見ることができるかもしれませんよ。

 日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。
 この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。「それでは帰らせて頂きます」。「あすとりに来させて頂きます」。「そういうわけで、御社に受験させて頂きました」。「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。
 この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、他宗には、思想としても、言いまわしとしても無い。真宗においては、すべて阿弥陀如来――他力――によって生かしていただいている。三度の食事も、阿弥陀如来のお蔭でおいしくいただき、家族もろとも息災に過ごさせていただき、ときにはお寺で本山からの説教師の説教を聞かせていただき、途中、用があって帰らせていただき、夜は九時に寝かせていただく。この語法は、絶対他力を想定してしか成立しない。それによって「お蔭」が成立し、「お蔭」という観念があればこそ、「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。
 かつての近江商人のおもしろさは、かれらが同時に近江門徒であったことである。京・大阪や江戸へ出て商いをする場合も、得意先の玄関先でつい門徒語法が出た。
「かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます」
 というふうに、この語法は、とくに昭和になってから東京に滲透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである。

『街道をゆく24 近江・奈良散歩』(朝日文庫)11-2頁

 この記述の後に「三井家」に触れた箇所も出てきますので、併せてご覧ください。

 日野町は、織豊時代、もっとも知的で武略に富んだ大名として知られた蒲生賢秀・氏郷の古い城下町であった。蒲生氏は鎌倉時代から地頭だったが、租税徴収だけをする地頭ではなく、歴代、よく百姓を介護した。特に賢秀・氏郷は商人を保護し、このため氏郷が伊勢松坂に移封されてからも日野商人たちはあとを慕って松坂に移った。このことが、伊勢における商業をさかんにした。戦国期の近江においては武士から、商人になる者も多く、たとえば三井家を興した三井越後守高安なども、日野出身ではないが近江で興り、伊勢に移った。やがて松坂木綿をあつかったり酒造業を営み、江戸期、江戸に移って呉服商を営んで大をなした。越後守であったために、家号を三越と称したことは、よく知られている。

『街道をゆく24 近江・奈良散歩』(朝日文庫)13頁


〔2021年10月7日 追記〕
 「させて頂きます」に関連して「あります」についても紹介したかったのですが、その場で典拠の確認ができなかったために先送りにしてました。昨日、読み終えた 『街道をゆく 1 甲州街道、長州路ほか』(朝日新聞社 1971年9月25日発行)にその記述がありましたので、備忘のために記録させていただきます。

 下関は、正しくは赤間関といった。しゃれて赤馬関とも書き、転じて儒者好みに馬関とよばれたのが、この港町のよび名になった。いまでも下関郊外の老人などのあいだでは、
「きょうは馬関へ行ってきた」
 などという言い方が遺っているらしい。十年ばかり前、吉田という村で、そんなふうにしゃべる老人のことばをじかにきいたことがあって、そのとき、
「もう一度いってください}
 とたのむと、老人はあわてて、
「エイ。下関のことであります」
 と言いなおしてしまった。アリマスというのは長州独特の敬語で、これは奇兵隊から発展した日本陸軍にのこった。旧陸軍では、敬語としてデス、ゴザイマスは地方語として禁じられており、すべてアリマスであった。初年兵たちはこのアリマス語がなかなかつかえず、ついデスといってなぐられた。しかし古年次兵になるとつまりは脱長州で、下士官や将校に対して、ソウデスヨなどといって貫禄をみせる。

『街道をゆく 1 甲州街道、長州路ほか』(朝日新聞社 1971年9月25日発行 262-3頁)


〔2022年1月20日 追記〕「です」

 ところで、芥川は、「鼠小僧次郎吉」なかでは、登場人物のたれにも「です」ということばを使わせていない。
「です」
 というのは、明治後多用されるようになったことばである。
 江戸時代はほとんど使われず、江戸期の「です」は、遊里や芸人のことばだったという。遊里や芸人たちは、本来、でござります、というべきところを、であんす、とちぢめて言い、さらにみじかくして、です、といった。
 です、がどういう源流をもち、どのようにして明治後の日本語のなかで圧倒的な共有性をもつようになったかについては、さまざまな考察があり、ここではふれない。
 ここではあらっぽく四捨五入して「です」は明治語であるとしたい。
 芥川龍之介が「鼠小僧次郎吉」のなかの登場人物たちに「です」をつかわせていないのは、「です」をつかえばせっかく造形した江戸後期の遊び人が、明治の書生のようになってしまうからである。です、は書生風の無階級ことばだった、と考えても大きくまちがっていない。対して、ソウデスヨなどといって貫禄をみせる。

『街道をゆく 36 本所深川散歩・神田界隈』(朝日新聞社 1992年4月1日発行 169-70頁)


〔2022年3月31日 追記〕

 此日は父は御殿の当番で、内には居りませぬけれども、母が平成厳重で、少しでも言付に背くと、ひどく叱られるので、今日も此通りにしたのであります。
 であります、というのは、長州弁である。ついでながら希典の幼名は無人(なきと)といい、もじって泣人(なきと)などと人にからかわれた。

『街道をゆく 33 奥州白河・会津のみち 赤坂散歩』(朝日新聞社 1989年11月30日第一刷発行 330頁)

 これだけでは何のことかわかりませんね。上の引用中の引用箇所は塚田清市という長州人で、乃木希典の死後(1916)に書いた『乃木大将事蹟』という著作の中で、希典の少年時代を語るくだりと司馬さんが述べています。
 「であります」が長州弁だというのは、その点を指しているわけです。

〔2022年4月4日 追記〕

 大坂は一階級意識とまではいかなくても、階級や身分の境界がくっきりしておらず、売る者も買う者も、適度な敬語をつかうのだが、お順が中津に帰っても百姓町人に丁寧なことばをつかっていたというのは、大阪の風だったともいえそうである。くりかえすと、相手の身分でことばを変えずにたれに対しても軽度の敬語をつかいあうという船場・堂島の風であり、これに慣れてしまえば快感があり、気楽でもある。
 それに、当時は大坂といえども、京に似た上方ふうで、都市文化という点では、中津よりすぐれていたかもしれない。
 ともかくも、中津に帰ってからのお順はいっさい大坂風でとおした。『自伝』のなかで、福沢が、“そうです”というコトバを、中津では、
「そうじゃちこ」
 と言っている。ところが福沢家では、“そうでおます”と大坂風にいうのである。
 この“そうでおます”は大坂では軽い敬語で、重くいえば他地方と同様、“左様(さい)でごわす”とか“左様(さい)でござります”というふうになるのだが、日常は“そうでおます”ですべて事足りる。しかし、中津人からみれば、なんだ、あれは、というようなものだったろう。

『街道をゆく 34 大徳寺散歩 中津・宇佐のみち』(朝日新聞社 1990年4月10日第一刷発行 322-3頁)

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