我が家のルーツ探しと「赤い糸 (lazo rojo)」

 20年ほど前のことになりますが、結婚して戸籍を作ったときに私の苗字の表記が強制的に変えられました。なんでも戸籍法の改正により使用できる漢字の字体に制限が加えられたからだとか。
 独身時代の私の姓「ましま」の「ま」は「直」+「ハ」という異体でした。「真」でもなければ、「眞」でもありません。両親が役所に届け出た際に下のような「ま」と「島」で「ましま」となったのです。従って小中学生のときの私のゴム判は下の異体字の「ま」でした。


 大学時代に独り暮らしを始めるに当たって、市役所で正しい漢字は「真」なので訂正してほしいと願い出たことがあるのですが、なんだかんだと小難しいことを言われてそのままずるずるとほったらかしにしてしまいました。
 ところが、婚姻届を提出する際に法律改正を理由にこれまでの異体字は「眞」と表記すると一方的に言われたことから、現在は「眞島」を使用しています。

 話は変わります。司馬遼太郎さんの『街道をゆく 9』(朝日新聞社)に

 大正十二年五月、地主の真島家が小作人十二人に対し、小作料未払いを理由にその請求のための訴訟を新発田区裁判所に提訴した。つづいて同十三年三月、同家は小作人六十余人に対し、小作米未納を理由に仮処分を申請し、新発田区裁判所によって受理された。(72㌻)

という一節がありますが、これが私の実父の実家です。正確に言えば祖父の実家ですが。
 私が5才か6才になったばかりの頃に実父が事故でなくなり、母は実家に帰されました。それでも父方の祖父母が存命中は夏休みになると父の実家に一人で行かされました。小学2年生か3年生頃までだったでしょうか。
 それと前後してだと思いますが、母が再婚しましたが、姓は「ましま」のままです。
 母も叔父や叔母たちも実父や実父の実家のことを話題にしたことがありません。もっと言ってしまえば、避けているかのようでした。私が小学生の頃に一度だけ、「知らない人から、あの真島さんの親戚ですかという電話があった。本家はバカでかい屋敷に住んでいる」という主旨のことを母が話してくれたことがあるくらいです。そういうことですから、実家のことも実父がどんな人だったのかも全く知らないのです。

 今から10年ほど前のことです。勤務先の学長から、「濁川の真島という家を知っているか」と質問されたのですが、父の実家だと返答したことから『新潟県農民運動史 増補改定(ママ)版』(市村 玖一 著:創作舎 昭和57年9月6日第一刷)という本を紹介されました。同書に木崎村争議の顛末が詳述されています。
 本書は明治40年5月31日に柳田国男が北蒲原郡濁川新田(いま新潟市)の地主、真島家(「二百年来の開発地主」)の玄関先に立った場面から書き出されています。応対したのが、後に木崎村争議の旗頭となる当主の真島桂次郎です。同書によれば、

真島桂次郎は、県下の農会や地主会の先頭に立つ農政家であった。その威勢は、知事のうえだとさえいわれていた。地主流の教養であったとしても、学問をし、剣を学び、詩文をよくし、身を修めるに謹厳であった。財をおさめることは父祖の伝統であって、それをじぶんの快楽の具にはしなかった。敵将、三宅正一も、それを認めるにやぶさかではなかった。かれが冷酷無惨な悪地主であると宣伝されるのは、その法治主義的な合理主義のせいであり、明治人の気骨でもあった。(163㌻)

とのこと。また、弟に良三郎がいることも教えてくれています。

 私の母が再婚に際して何故実父の姓を棄てなかったのか、その真意を尋ねる勇気は持ち合わせていません。私の子ども達が先祖のことが気になる年齢に達した時のために記録しておきたいと思い、この雑文を書き始めてみたものの、私自身が知らない事ばかりのためにあとは彼らに任せたいと思います。
 たまたま、玄洋社のことを調べている風変わりな学長から一冊の書籍を紹介されたことがきっかけで我が家のルーツを探る努力をしてみたものの、得るところは多くはありませんでした。本家を訪ねれば、家系図等、もっと具体的な内容を知ることはできるのでしょうが、幼少時にお世話になった叔父夫婦や従姉達と没交渉のまま年月だけがあまりにも経過してしまっているため、今更難しいのかなと思っています。
 現段階で私が知り得ていることは、先祖は現在の岡山で赤松氏の配下であったこと、その後に東進、最終的には関ヶ原を経て越後に辿り着いたという概略のみです。また、廃藩置県により短期間ながら、今の岡山県下に「真島県」が存在したこと、谷根千に残っている「真島坂」がご先祖様と我が家を結びつける唯一の具体物であることぐらいです。

 興味深いことに、妻の父が岡山の人であることから何らかの因縁があるのかと不思議な気持ちになったものですが、我が家のルーツ探しをしていた十年ほど前のことが懐かしく思い出されます。
 そういう意味で、私の中では「赤い糸」lazo rojo の存在は否定しがたいものがあります。最後に “Cuéntame cómo pasó” からの引用をどうぞ。

(VOZ EN OFF CARLOS ADULTO) “Cuenta la tradición japonesa que los seres predestinados entre sí están unidos por un lazo rojo que les mantiene conectados. Ese lazo puede tensarse, enredarse o desgastarse, pero nunca llegar a romperse. Los seres humanos necesitamos establecer vínculos afectivos con los otros. Porque creemos que solo así seremos felices. Cuando, en realidad, ese apego es lo que nos hace tremendamente infelices. Así vivíamos los Alcántara aquel junio de 1987. Pendientes de un hilo que nos unía y que siempre parecía estar a punto de romperse. Los sabios dicen que la verdadera felicidad reside en saber amar sin necesitar al otro, viviendo el amor como una elección en absoluta libertad. En definitiva, saber caminar solos aunque vayamos cogidos de la mano. Juntos, pero capaces de escuchar nuestra voz de dentro. Esa voz que solo se escucha cuando el mundo calla”.

“Cuéntame cómo pasó” – Capítulo 337: ‘Quiero ser libre’

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