岩波茂雄と神田高等女学校
またまた『街道をゆく』ですが、第36巻を読み終えたところで、妻に「神田高等女学校を知っているか」と尋ねたところ、「お茶の水(大学)を出て竹沢里先生がつくった学校でしょう」という回答でした。お茶の水女子大学の前身が東京女子高等師範学校のようですので、辻褄が合うのかと独りで合点してしまいました。
今春、大学2年生になった娘の通った高校だということを初めて知ったのです。これには自責の念も含めて苦い思いが重なっているものですから、前回は同じ箇所を読んでいる最中にどこかで聞いたような学校だなと気になりながらも、そのまま読み流してしまいました。
私自身が学校には過大な期待はできないと思っているものですから、娘が中学を卒業したら就職すると言っても、社会に出て勉強したほうがいいだろうという考えが強かったですし、あまり勉強好きとは言えない彼女のことですから嫌々苦手な学科を勉強するよりもいいことだと判断しました。
最終的には母親との話し合いで高校進学を決めたようですし、進路について一切口出しするなとまで妻に言われていたことから娘の通う学校名さえおぼつかないという始末でした(似たような校名が多いから?)。因みに大学進学時も同じことの繰り返しでしたし、彼女の卒業式や入学式にはガイド業務と重なるシーズンであることを口実に出席もしていませんでした。私の出る幕は皆無です。
こんな体たらくなものですから、どこで何を勉強しても無駄にはならないだの、生きる力を身につけてくれるだけでいいと思いながら、ずっと余計なことは一切言わないことにしています。
ところが今回は、この一、二年で同書を三度読み返した直後でもあったことから妻に上のような問いを投げかけてみたのです。
そして、私が高校生の頃からお世話になっている岩波新書・文庫の岩波書店創業者が教鞭をとったことのある学校に我が子が通っていたという偶然に驚きました。妻曰く、「私が通っていた学校のすぐ裏にあった高校だから昔から知っていたよ」でした。世間は広いようで本当に狭いものですね。
以下、備忘録として記録させていただきます。
そのころ、神田の神田橋のたもとに神田高等女学校という私立学校があった。
-司馬遼太郎 『街道をゆく 36 – 本所深川散歩・神田界隈』(朝日新聞社 1992年4月1日 第一刷発行 397-9頁)
神田は、くりかえすが、学校と塾のまちである。諸学諸術の学校があったが、女学校は多くなかった。
竹沢里という東京女子師範の卒業生が経営していた学校で、大学の選科を出た岩波はここで四年つとめた。信じがたいほどの重労働ながら、英語と国語とを教え、また西洋史も担当し、さらに随意科目としての漢文まで教えたという。でありながら月給は三十五円にすぎず、じつに安かった。そんなことを頓着もせずに、懸命に教えた。無我夢中というのは、岩波のうまれつきであるようだった。
安倍能成も、在職四年間の岩波について、「世の教育者中、神田高等女学校時代の岩波くらゐ、情熱と精励とを以て、報酬に頓着なく教育に当つたものは少なかつたろう」という。
岩波の風貌は、写真でみると眉がふとく、目がぎょろりとして叡山の荒法師のようで、廊下を歩く足音も大きかったらしい。講義をはじめると夢中になり、あるときなどは「教壇からおつこちた」(『傳記』)というほどであった。
ただし、あまりに集中し熱中しすぎたために、ゆりかえしがきた。「弛んで、感激の薄れ」(『傳記』)、ついには転業して乾物屋でもやろうとおもい、売り店舗を見に行ったこともあるという。また菓子屋か食堂でもやろうかと考えたりした。
(中略)尚文堂の手代が、岩波にその店を借りて古本屋さんをやることをすすめてくれたのである。
岩波は、そのあるじになった。資金は、故郷の田畑を売ってつくった。大正二年八月五日(『岩波書店七十年』)のことで、この人が三十三歳のとしであった。
開店にあたって神田高等女学校を退職した。教職から退いた理由は、岩波自身の文章によると、
「人の子を賊(そこな)ふ如きことより外出来ない教育界より去ることにした」
と、いう。伝記を書いている安倍能成は、皮肉なことに教育者なのである。一高校長を務めて太平洋戦争の敗戦を経験し、この伝記を書きはじめたのは昭和二十四年ごろで、学習院長だった。“人の子を賊ふ”というこのくだりにはやや抵抗があったらしく、「彼はかういふ文句がすきで、前にも後にもそれを繰り返すことが多かつた」とかいている。
“かういふ文句”とは、自己の節目節目の説明に、自分が考えた切り口のするどい文句をつかうという意味にちがいない。