読書録 『街道をゆく 22』
3か月近く大佛次郎さんばかりでしたので、久しぶりに『街道をゆく』シリーズを手にしました。
カンドウ神父、私が学生時代には古書街にも全集が並んでいましたが、今はどうでしょうか。ここ数年ゆっくりと古本屋さん巡りをすることがなくなりました。ネットで古書検索ができることが一番の理由かもしれませんし、年とともに外出が億劫になってしまっているためかもしれません。
いつか買い揃える日も来るかなと思いながら、結局はそのままほったらかしになっていたのです。さきほど、ネット検索してみたのですが、日本の古本屋さんでも「在庫なし」というところをみると忘れられた存在なのでしょうか。
このバスクの人も司馬さんに教えられた一人だと思うのですが、本との出会いも一期一会ですね。出会った時が吉日とすぐに入手しないと最終的には読みたいときにそれができないという苦々しい思いをしてしまうものです。
家族にしてもそうかな。いつでも会えると思っていても、世の中何が起こるかわかりません。ここ数年顔を見せていない母のことが気になっていても電話一本入れない親不孝が続いています。
さてさて、カンドウ神父(「バスク国に生まれ、頭脳と心は日本人であった」同書222頁)。私にとっては司馬遼太郎さんが教えてくれた以上のことは知らない存在です。ですが、司馬さんが引用してくれた神父の日本語の文章には魅かれるものがあったものですから、その名も記憶にとどまっています。
また、若い頃にスペイン語会話を指導してくださった神父さんがバスク人でした。見た目は厳しくとっつきにくい方だという先入観もありましたが、易しいリーダーを数冊ご紹介いただいて初めてのスペイン語原書を読むことができたという思い出もあります。今振り返ってみると厳しいなかにもちょっとしたユーモアもある方だったですし、氏の日本語もこなれたものでした。いつか同氏の日本語のように私も外国語であるスペイン語が操れるようになるのかな、と不安にさせられたものですが、残念ながらその足元にも及びません。恐らくこのスペイン語の先生とカンドウ神父がいつの間にか私の中で重なっていたのかもしれません。
いずれにせよ、読書を通して時代も場所も異なる世界を追体験できることはありがたいことですね。そういう意味では日本は恵まれた環境であることに感謝せねばなりません。これ以上雑談を続けると収拾がつかなくなります。以下に備忘録として残しておきたい箇所を引用させていただきます。特に外国語の勉強法に関する箇所は子ども達に教えてあげたいです。かなり長い引用になりますので、能書きはこれくらいにしておきますね。
以下、引用です。引用文中の引用箇所をきちんと書き分ける方法を知らないため、次のような表記にさせていただきます。ご了承ください。
かれは日本語を愛しつつも、ともすれば的確さや明晰さに欠けることにいらだっていたにちがいない。焦燥は、カンドウ神父における愛情のあらわれである。
以下は、日本語とフランス語との本質的なちがいについてのべている。
日本語は具体的な話のためにはよい。雄弁術にも適している。自由なことばにははっきりした規約がない。自由でないことばは文法がよく発達しているので、たとえばフランス語などはフランス人でさえも正確に話すことがむずかしい。しかし自由なことばでは抽象的な話はだめである。日本語で、本質、本性、本体、可知性、不可知性と訳されていることばは、欧米で用いられている哲学上の意味を的確にとらえていない。この例からしても日本語と外国語の相違がよくわかる(一九三四年ごろ「自然神学の講義」より)
さらに、おなじ趣旨のことを、以下で深めている。
一八二四年に発行された Batteux 教授の Principes de composition littéraire という著作の中に、人間の言語を “自由な言語“ と “束縛された言語” との二種類に分けて説明している。ギリシャ語やラテン語などは、自由な言語であるゆえに、感情を表わすに適し、詩や雄弁にふさわしいという。これは日本語にもあてはまるであろう。これに反しフランス語は束縛された言語のよい見本である。合理的でありなによりも明快を尊ぶゆえに、束縛の多いものとなる。(「仏作文のたのしさについて」)
右のカンドウ神父の感想から、いまは数十年経っている。大正・昭和初期の口語、文章語の日本語からみると、 “束縛された言語” ではないながらも、論理を表現する上でよほど進歩したことは認めざるをえない。
フランス語を勉強する青年諸君に望みたいことは、ことばとともにフランス流の合理的な考え方をも学び、それによって日本的思索における論理の欠乏を補うようにされたいということである。(同右)
カンドウ神父は、すぐれたユーモリストであった。以下の文章は、外国語の学び方について書かれている。かれは外国語の習得は「死んだ単語の収集より、文章の中で息の通っている述語を、辞書と相談の上で覚えて行くべきであろう」とする。黙然として単語帳の記憶などするな、反復練習をして生きたことばとして頭に入れよ、ということの例として、大正時代の東京大司教だったレイ師の名人芸ぶりを紹介している。当時、東京の街ではまだ人力車が活躍していた。
冬の寒い日のことだった。白いひげの大司教閣下が人力車をよんで、外出した。この日、車屋はいつになく不機嫌で、愚痴ばかりいった。「朝から晩まで車をひいても手に残るものは酒代もならぬ」などとこぼしつづけるうちに、後ろの車台で司教さまが大きく咳をした。「おや、だんな」と車屋はふりかえった。
「おや、だんな、風邪をひきなすったね」と心配そうふりかえるのに、レイ師はやおら白ひげを撫でながら、
「そうじゃよ。ま、こうしたもんじゃ。なあ、お互いこの浮世に生れた上は、俥か風邪か何かひかにゃならんもんじゃ」と答えた。(「車と風邪と字引と」)
大司教の諷刺と車屋への愛情が、ユーモアという上質の気体になって立ち昇っている。この咄の素材はレイ司教ではあるが、カンドウ神父の文章でなければ、こうもいきいきした人間の情景にならなかったろうと思われる。
-司馬遼太郎 『街道をゆく 22 – 南蛮のみちⅠ』
(朝日新聞社 昭和59年3月20日 第一刷発行 218-22頁)