身はたとひむさしの野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

 数年ぶりに吉田松陰の辞世の句に出会いました。
 大佛次郎の『天皇の世紀』をご存じでしょうか。昔、スカパーの時代劇チャンネルで映像化されたドラマをみたことがあります。日本の名優たちの若かりし日の演技に魅入ったものですが、その原作者みずからドラマ冒頭に登場していました。
 残念ながらこの大作も未完です。朝日文庫版で全17巻、本日、その第3巻を読み終えたのですが、その最後のほうに出てくる『留魂録』は刑死する前夜に松陰によって記された絶筆と言える書です。
 そして、『留魂録』の冒頭に辞世の句が登場します。随分と若い頃に友人たちにこの一句を記した賀状を出したことがあると思いますので、旧友のなかには記憶してくれている輩もいるかもしれませんが、一時期、私にとっては座右の銘のひとつであったことは間違いありません。
 かえすがえす悔やまれるのが若い時の日記が残っていないことです。当時どんなことに興味を持ち、どんな思いでいたか知る術がありません。記憶力の良くない私なのですから、せめて日記だけは処分すべきではなかったと悔やんでいます。
 子ども達には自身の思い(悔しさや悲しさ等、なんでもいいですよね)を文章化することで自省する手立てにしてもらいたいのですが、私自身がこんな体たらくでは何も言えませんね。少なくとも今の思いを書き残すことが、彼等への置き土産になると信じて「竹の子」というカテゴリーを設けたのですから、できる限り率直な気持ちを記したいと思っています。
 前置きが長くなりましたが、『天皇の世紀3』(朝日文庫)「大獄」から以下の引用をさせていただきます。

 死が近付いて来る。
「今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。未だ曾て西成(秋に物の成熟するをいう)に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。吾れ行年三十、一事成ることなくして死して、禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿(松陰)の身を以て云えば、是れまた秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人寿は定まりなし。禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとする蟪蛄(けいこ)をして霊椿(れいちん)たらしめんと欲するなり。」
 蟪蛄は、ひぐらしの生命短きもの、霊椿は長生する霊木。
「百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備わる。また秀でまた実る。その秕(しいな)たると、その栗たると吾が知る所に非ず。若し同志の士、其の微哀を憐れみ継紹の人あらば乃ち後来の種子未だ絶えず。自ら禾稼の有年に恥じざるなり。同志それ是れを孝思せよ。」
 地に落ちる一粒の麦となるが、おのれが精神の生命は続くものと信じる。「留魂録」の最初に、
              身はたとひむさしの野辺に朽ちぬとも
              留置まし大和魂
 と記した。この大和魂は明治年間以降のように日本的に狭く曲解してはならぬ。松陰の思想は、生成の最中でいつも素直に柔軟に変容する用意があった。もっと若い日には目的がないのに遠く諸国の旅をして目標をさがしている。嫌っている夷狄の国へ渡ろうと外国船で密航を企てる。この極めて行動的な魂が、いつも透明で純一であった。武士に生れて死に対する意識がいつも有ったのは、彼のような敏感な魂には自然だし当然であった。その上に牢獄や幽閉に身をおいて、不時の「死」の顔をいつも見ている立場に在る。幽囚のまま死んでも誰か自分の志を継ぐ友人か弟子を残しておく。田舎の村塾の教師でありながら、いや、そうあったから、それだけの夢を死の約束の裏側に離さずにいた。弟子たちの各自の政情を認めて愛しながらその中から自分の志を継ぐ者を作ろうとした。田舎教師の生きる希望と悦びであった。「今日義卿(われ)奸権の為に死す。天地神明照艦上にあり。何惜しむことかあらん」である。

大佛次郎『天皇の世紀 3』(朝日文庫 昭和52年9月20日発行 242-3頁)