国宝 瑠璃光寺五重塔

 九州在住時には度々ドライブをしたものですが、大学生・高校生になった子ども達は友人との外出を優先するものですから、今は昔の思い出写真を眺めることが多くなりました。写真だけではなく、簡単ながら文章も残っているので当時の様子がぼんやりとではありますが、頭の片隅に残っているかのような錯覚さえ覚えます。こんな、まったりとした時間を過ごすのもいいのではないのかなと自身を慰めるしかないようですね。


 11月7日(土)、立冬とはいえ天気も良かったのでドライブをしました。目指すは山口市にある瑠璃光寺です。数年前に津和野に行くために国道9号線を走ったことがありますが、そのときに看板を目にしたままなかなか行く機会に恵まれませんでした。今回は週末1,000円の高速道路を利用したので1時間半ほどで目的地に到着です。
 観光案内図を手にするまで五重塔の他に見るべきものが多数あることを知らずにいたのですが、陽気に誘われるかのように街並を散策することにしました。子ども達にはちょっと気の毒だったかもしれませんが、正午前に駐車場に入って昼食を挟んだものの5時間近くぶらぶらしたことになります。
 五重塔と瑠璃光寺資料館内に展示されている諸国の五重塔の模型は見応えがありました。司馬遼太郎さんの『街道をゆく』の一節が石碑に刻まれていましたが、こんな記述も同書にありますので、紹介しておきます。

 それまで毛利氏は広島を主城としていた。
 その広島を去り、防長二州に押しこめられたとき、大内氏のむかしをおもって山口を主城にしようとした。ところが幕府は、
「萩へゆけ」
 と、追いやってしまった。幕府は、毛利氏が山口のような便利のいい所に府城を置くと、また瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手をのばすかもしれないということをおそれ、遠い日本海の漁村へやってしまったのである。
 以後、山口はすたれた。
 この瑠璃光寺にしてもそうであった。もともとこの地にあったのは香積寺という大刹で、大内義弘の菩提寺であり、堂塔や塔頭の壮麗さを誇っていた。
 ところが微禄した毛利氏が萩で城と城下をあらたにつくらねばならず、経費も窮屈なため、この香積寺の建物のほとんどを萩へ持って行ってしまったのである。これによって香積寺という寺は消えた。
 ただ、五重塔だけは、城にもならず、櫓にもならないから、置きすてた。
 草の上に置きすてられたまま八十余年間、守人もなく廃都の風雨にさらされていたが、元禄三(1690)年になって毛利家の経済がすこしは息がつけたころ、吉敷郡仁保という山間の在所にあった同名の寺がここに移された。要するに瑠璃光寺そのものは、聖フランシスコ・ザビエルがきたころの山口の府にはなかったわけであり、その頃からあったのは、いま雨の中で光っている五重塔だけであった。

司馬遼太郎 『街道をゆく 1』(朝日新聞社 昭和46年9月25日 発行 327-8頁)


 5時間足らずの散策では到底すべてを見学することはできませんでしたので、別の機会にまた訪れたいと思います。そのときは雪舟、ザビエル、中原中也の足跡を辿ることができたらいいなと考えていますが、いつのことになるやら。幕末の志士たちを多数輩出した「人材県」の中心都市なのですから時間をかけてじっくり味わってゆくしかありません。子ども達がもう少し大きくなるのを待つ必要がありそうです。

-「家族通信 竹の子 第97号」(平成21年[2009]年11月15日 発行)

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