あなたは挨拶をしているか

 今回、HPのカテゴリーに「竹の子」を追加したのは、以下に紹介する鈴木健二さんの文章を大学一年生になった長女に読んでほしいと思ったからです。
 
 自分の書いた教室通信を改めて読み返してみると、独身で家庭も持っていなかった頃のことでもあるせいか、随分と生意気な書き方をしていたと反省させられます。本当に怖いもの知らずですね。それでも、私自身には理想の家族像というものがありましたし、そのためか結婚して家庭を持つということは諦めて生涯一書生として暮らそうと決めていた時代のことでもあるので大目にみてください。
 そんな私も今では一男一女の父親になっているのですが、幼い頃に事故で父親を亡くしたために、理想の父親像ばかりを追い求めていたきらいもあります。逆に父親がいなかったことから結婚についても二の足を踏んでいたのかもしれませんね。それでも自分なりに思い描いた父親の姿を追求しながらの子育てになってしまい、かえって子どもたちからはそっぽを向かれてしまう結果になったのだろうと悔やまれもします。
 私が子どもたちに言って聞かせてきたのは、「せいりせいとん、おかたづけ」と「ごあいさつ」の二点だけでした。本を読んでとは言いましたが、勉強しろとは言いませんでした。小手先の技能ではなく、その根本さえ押さえてくれたら社会に出たときに困ることはないだろうと信じていたからです。残念ながら、部屋の整理もできなければ、挨拶もできない子どもになってしまいましたが。
 下の男の子が15才で中学校を卒業した時点(昔で言えば元服ですからね)で私自身の子育ては終わったので、あとは自分自身で考え行動してもらえたら良いとは思っています。
 そうとは言え、彼らが物心ついた頃から「おかたづけ」、「ごあいさつ」と念仏のように言い続けてきたその結末が目の前にありますので、ただただ無念の一言に尽きますし、子どもたちに残してあげられるものは他に何もありません。せめて私の思いを書き残して、それが家庭を持ったときに遭遇するかもしれない不安や悩みに対する助言になればとの願いがあります。

 余計なことはこのくらいにしましょう。鈴木健二さんといえば、ある時代を象徴するNHKの名物アナウンサーですが、同氏の本も集中して読んだ思い出があります。「挨拶」は基本中の基本のはずなのですが、我が家でもこの基本ができない状況になってしまったことから、またか?と思われても我が子に伝えたい文章として転記させていただきます。さらに言ってしまえば、この文章を読んでもらえたら、このカテゴリーの役目は終わったようなものです。


あなたは挨拶をしているか

 人間とは人と人の間のことであると、近頃しきりにあちこちに書かれている。その間にあるのが心だという。人間はみんな心をつなげて生きているのはあたり前なのだが、心というのはとらえどころのないもので、「どこにどんなかたちで存在するのか示してみよ」といわれても、たちまち返事に窮してしまう。
 そこから哲学も出発したのだろうが、私たちの日常考える心というのは、そうむずかしく考えることはない。私たちが暮らしの中で他人に対してふと見せるしぐさ、あるいは習慣、そういうものには、ほとんどすべて心の裏づけがあるからなのである。
 その一番の現れが挨拶である。挨拶の“挨”という字は、「開く」という意味であり、”拶“は「迫る」という意味だ。つまり挨拶というのは、「心を開いて相手に迫る」ことなのである。また、“挨”にも”拶“にも「開く」という意味がある。
 さらに、“挨”はもともと「押す」、”拶“は「押し返す」という意味でもあった。挨拶をされたら、かならず返せということである。
 ところがかつて礼儀正しさでは、世界に定評のあった日本人が、いつのまにかこの人間関係の基本ともいえる挨拶をしなくなってしまった。
 あなたは朝起きたとき、夫婦で「おはよう」の挨拶をしているだろうか。「している」といわれる方は私の調査でも一〇パーセントしかない。日本人は挨拶抜きで、つまり、心を開き合わないで一日が始まってしまうのである。

-鈴木 健二 『気くばりのすすめ』(講談社) pp.176-177

 日本人は、利害関係のあるところへいくと、きちんと「おはよう」「こんにちは」と挨拶します。そういうところでは人間関係をつくろうとするのですが、儲からないと思ったら、見向きもしません。ここが、日本人が世界中で嫌われる最大の原因なのです。
 私はまたかと呆れられるのを百も承知で、私のほとんどすべての本でいまの日本人のためにくり返すのですが、挨拶の“挨”というのは、”心を開く”という意味です。挨拶の”拶“、これは “迫る” という意味です。心を開いて相手に迫る、それが挨拶なのです。
 また、“挨”には “やさしく触れる”、”押す”、 ”拶“には “強く触れる”、”押し返す” という意味があるのです。
 教育は、教える先生と教えられる子どもとの心の開き合い以外の何ものでもありません。つまり、先生が子どもを信頼し、子どもが先生を信頼しなければ、教育は最初から成り立たないのです。先生が、奥さんや自分の子どもや近所の人におはようもいわずに、教室の中だけおはようと大きな声を出しても、子どもたちが、あの純真な目で、先生のその場限りの心を見破っていないとはいえません。
 子どもは知っているのです。ただそれをうまく表現できないだけのことです。つまり、誰とでも心を開き合える先生でなければ、教育は最初の一歩も踏み出せないのです。
 しかし、「おはようございます」という挨拶一つでも、それをいうにはどんなに勇気がいることでしょう。
 親は家族のリーダーですし、先生は教室のリーダーです。リーダーの第一条件は、勇気があるということです。勇気のない親や教師には、どの子どももついて来ません。つまり、経営者と社員のようなものです。本当の勇気を持っている経営者こそ、社員は信頼して従ってくるのです。

-鈴木 健二 『続 気くばりのすすめ』(講談社) pp.57-58

 僕が学生の頃ですから、もう十年以上も前のことになりますが、「気くばり」という言葉が流行りました。火付け役は鈴木健二さんの著書です。今回、この本を紹介したのは何故だと思いますか。ちょっと考えてみてください。
 僕の教室ではうるさいぐらい「挨拶、挨拶!」と言っています。教室の入退室時はもちろんのこと、電話でも開口一番、「こんにちは」で話を始めることにしています。みんなの家に電話をしていつも思うことなのですが、みんなのお兄さんやお姉さんさえ全く挨拶ができていません。中学生、高校生になってもろくすっぽ挨拶ができていないというのはどうしてだと思いますか。挨拶が習慣化されていないからですね。なんでもない一言ですが、非常に大切な一言、それが挨拶です。挨拶のできない子に勉強なんて教えることはできません。なぜなら、その子には聞こうとする姿勢ができていないからです。勉強の成果など望めるはずがないではないですか。そんな子はお互いに時間とお金の無駄ですので、さっさと退会なさってください。(以下、省略)

-「教室通信 竹の子 第11号」(1995年10月1日 発行)

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