読書録『街道をゆく 43 濃尾参州記』
「死は、秘された。」
司馬遼太郎さんの『街道をゆく』(全43巻)を昨年9月からおよそ一年かけて読み返しました。
すでに何度か書いたことですが、いつの頃からか、初めて訪れる土地があると同シリーズに関連記事があるかどうかチェックすることが習慣になっています。特に専業通訳ガイドとして業務を請け負うようになってからは、つまみ食いならぬ「つまみ読み(拾い読み)」を続けています。
未完の『街道をゆく』シリーズですが、最終巻は「ついでながら、信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病いを得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。」で終わっています。
この続きが読めないのは残念ですが、担当記者の村井重俊さんの 「名古屋取材ノートから」という一文が収められています。ついでながら、同記者の『街道をついてゆく-司馬遼太郎番の六年間』というコラム集が朝日新聞社から出ています。そして、この書の解説は安野光雅さんです。
さらに、この安野画伯も『街道をゆく』 最終巻 に「司馬千夜一夜」という思い出話を寄せています。
この雑文は 『街道をゆく』 を一年ちょっとかけて読み直したというだけの記録ですが、シリーズ最終巻 結びの「死は、秘された」から安野光雅さんの死が連想されたものですから、こんな書き出しになりました。
新年早々、といっても1月30日(土)のことですが、恩師のお墓参りを兼ねて兄貴分のお二人にお会いしたときに、「この正月は津和野の叔父の家が記者に悩まされて大変だったようだ」と、元高校教員のS氏からお聞きしました。
昨年末に亡くなった安野さんについてですが、ある事情でその死がすぐには公表されなかったということで、親族が口を閉ざしているのなら、画伯の故郷にある安野光雅美術館名誉会長から情報を聞き出そうと報道関係者がS氏の叔父宅に押しかけて来たとか。
私にとって津和野(山陰の小京都)は、S氏の実家があるということだけでなく、森鴎外と西周の生まれ故郷であり、2000年9月23日に初めてS氏の実家にお邪魔して以来、町並とその雰囲気に魅かれてドライブを兼ねて何度か出かけた思い出の地であることです。
2001年3月30日、安野画伯75歳の誕生日に開館した美術館(開館当時、S氏の叔父が町長在任中だったことから、後に名誉館長に就任)には子ども達を連れても行きましたし、津和野城址まで山登りをして眼下を走る蒸気機関車の写真を撮ったこともあります。
「鯉の数のほうが人口より多い」(『街道をゆく 1 ー 甲州街道、長州路ほか』338頁)と司馬さんが記しているように「武家屋敷のみぞ」には鯉が群れていました。決して大きな町ではないのですが、太皷谷稲成神社(「稲荷」の「荷」を「成」と書きます)や津和野カトリック教会(明治になって隠れキリシタンを受け入れた町で乙女峠が有名です)もあります。
萩・津和野ルートは、我が家にとって恒例のドライブコースになっていましたし、両所共に私たちのお気に入りの地でした。
せっかくなので、雑談をもう少し続けさせていただきます。
安野光雅画伯は一九二六年うまれだから、私同様、明治以来の教育をうけた人である。すくなくとも、大戦末期のあの軍国主義教育からまぬがれている。
『街道をゆく 40 台湾紀行』 (朝日新聞社 1994年11月1日発行 251頁)
町一つが一つの学校のような津和野(島根県)のうまれでもある。さらには、山口師範研究科を修了した。だから、明治の伊沢修二の申し子ともいえる。
その人が、のしかかるようにして、秀才の劉中儀さんに、明治以来の古い学校唱歌を教えつづけたのである。
『小学唱歌集』を編纂したのが、上の引用に登場する伊沢修二です。彼は、「明治の教育理論の開発者であり、特に音楽教育において圧倒的な影響を教育界にあたえた人(同書、247頁)だそうです。
同書からもう一つだけ引用させていただきます。
伊沢が編んだ明治一四年(一八八一) 『小学唱歌集』初編のなかの稲垣千穎(ちかい)歌詞「思ヒ出ヅレバ」はスコットランドの古曲で、またスペインの古曲らしい曲に、野村秋足(あきたり)の歌詞がつけられた。それが、「てふてふ てふてふ。菜の葉にとまれ」の歌詞で有名な「蝶々」だった。
(同書、249-250頁)
若い頃から「スペイン」という語に敏感だったせいか、この言葉の含まれる箇所には赤線か付箋が付されています(原曲はスペインではなく、ドイツ民謡という説もあるそうです)。
そのお蔭で、こんな雑文を書き記すきっかけになるのですが、数年前のあるツアーで何か日本の童謡を聞かせてほしいとの要望に応えて口にしてしまったのが、「蝶々」なのです。しまった!と思っても後の祭りでしたが、爆笑と同時に顰蹙を買ってしまう一幕でした。
実は、榎本和以智 『俗語で覚える入門スペイン語会話』(南雲堂) に同じような逸話が書いてあったはずなのですが、そのときは他にそらで歌えるものがなかったためなのか、動揺してしまったせいなのか、結果的に究極の選択になったのかもしれません。
それに、大学でスペイン語を教えてくださったスペイン人女性は普段の会話で coño (間投詞としてですよ)を何の躊躇もなく口になさっていたものですから、あまり気にすることもないのかなと心のどこかで思っていたのかもしれません。
上の榎本さんの著書に、「coño の同義語は非常に多い。almeja (あさり)、castaña (栗)、chisme (うわさ話)、chocho (はうちわ豆)、cosa (物)、chichi (乳房)、chocada、 chumino、 higos (いちじく)、quiqui (陰毛)、raja (割れ目)、papo (ふくらんだもの) etc. ときりがない。」(76㌻) とあるように chocho は女性自身であることがわかります。その意味では chichi も同じなので、時と場合によっては気をつけたほうが良さそうです。
因みに “Cuéntame cómo pasó” では、別の見出し語として chocho, cha「ぼけた、もうろくした」 の意味で使われています。
舞台は1975年5月、主人公一家の Carlos (設定は1960年生まれ) と同級生たちとの会話です。
-Mira. Viva el primero de mayo. Amnistía y libertad. Muera la dictadura fascista. Por la lucha obrera.
-Yo tiraría eso a la basura.
-No seas cobarde.
-A tu hermana la trincaron por tener eso.
-Es injusto que metan en la cárcel por decir lo que piensas.
-No siempre se puede decir.
-¿Por qué?
-Porque está prohibido.
-¿Quién lo prohíbe?
-Franco. ¿Te parece poco?
-¿Quién es para decirnos lo que podemos decir?
-Es el que manda.
-¿Y por qué es el que manda?
-Yo lo sé. Por la gracias de Dios.
-Esto son cosas serias.
-Que no, mira. Lo pone aquí.
-Es verdad.
-Que ponga lo que le dé la gana. Estoy harta de ese viejo chocho.
-Yo mejor me voy.
-Y yo.
-¿Os da miedo que le llame viejo chocho? Mirad ahora. ¡Franco es un viejo chocho, Franco es un viejo chocho!
-Vale ya, Karina.
“Cuéntame cómo pasó” – Capítulo 141 “Últimas tardes con Minerva” (20 sep 2007)